
久世平太夫広長供養塔
- 平九郎家十三代目二男
- 2023年5月1日
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更新日:2024年8月17日

三河國の豪族にして、額田郡の住人小野高広の後、高広の妻は久世永次の女なり。其の子よりて、母姓を冒し、久世広長と云う。「姓氏家系大辞典」
三河(愛知県)額田郡の豪族小野高広の子。母が足利将軍家の臣久世十郎藤原永次の娘だったことから久世を称した。徳川家康の祖父松平清康、父の広忠二代につかえ、戦功をたてた。天文15年10月8日死去。通称は平大夫。「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」
「寛永諸家系圖傳」および「寛政重修諸家譜」には、父は平七郎広道、祖父は諱が不明あるいは避諱なのか某で通称が左大夫となっています。左大夫は、太政大臣久世通博の男となっているので、そこで村上源氏の系譜に繋がっています。
系図については、有名な武将であっても改ざんされていて、その人物の三代前は何をしていたのかもよく分からないはず、と言わます。果たして、藤原流小野氏なのか村上源氏なのか、現代においては特筆することではありません。ここで重要なことは、約500年前に久世平太夫広長という人物が実在したことであり、その子孫が今も存在しているということだと思います。
広長は、天文15年(1546年)に亡くなっています。当時は第三次 安祥合戦の最中で、天文15年9月に広忠卿が再び上野城を攻め、ようやくこれを落としました。広長はその際に傷を負い、それがもとで亡くなってしまったのではないか、と思いを馳せます。
清康君をよび廣忠卿につかえたてまつり、大いに戦功あり。大権現常にこれをのたまふ。「寛永諸家系圖傳」
広長は、三河國額田郡尾尻村(岡崎市竜泉寺町)の海雲山弘誓院長福寺に葬られました。広長の石宝塔は、岡崎市の指定文化財に指定され現存しています。長福寺は、『天下のご意見番』として有名な大久保彦左衛門の墓石もある大久保氏の菩提寺です。
「寛永諸家系圖傳」には、広長には二男平四郎長宣の他に、甚九郎と忠直(大久保甚左衛門尉)という息子がいます。ただ、この甚九郎と忠直の母は一緒ですが、忠直の父は大久保新八郎忠俊(常源)と記載されています。この記載を信じるならば、広長の妻は広長の死後に大久保新八郎忠俊に嫁ぎ、忠直を儲けたとことになります。そのため、広長の石宝塔の隣に大久保新八郎忠俊(ここでは大久保五郎衛門忠俊(浄源))の石宝塔があることに得心します。この久世家と大久保家との繋がりは、この後も長く続くことになります。






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