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久世三四郎広宣一門とは

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久世三四郎広宣一門会は、久世三四郎広宣を始めとする久世家の先祖を偲ぶ親睦会と謳っています。では、久世三四郎広宣を祖とする久世家とは、具体的にどこまでを想定しているのか、という疑問にお答えしたいと思います。


江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』に基づいて、「村上源氏 久我流 久世氏」と題して家系図を作成しました。『寛政重修諸家譜』は、文化9年(1812年)10月に完成しましたが、当時代の久世家としては六家が存在していました。

第一は、広宣の長男で鉄砲百人組頭を務めた広当(ひろまさ)の宗家(7110石)です。便宜的に旗本三四郎家と呼びます。第二は、広宣の三男で関宿藩久世家初代藩主、若年寄、老中を務めた広之(ひろゆき)の大名家(50000石)です。第三は、重之の五男で分家した廣籌(ひろかず)の旗本民部家(5000石)です。第四は、広当の三男で広之の養子となりましたが、後に広之の三男重之(しげゆき)が生まれたために分家した広次(ひろつぐ)の旗本平九郎家(3500石)です。第五は、広宣の異父弟である大久保忠郷の子で、広宣の養子となった重利(しげとし)の旗本権之助家(400石300俵)です。ただし、重利の長男重広(しげひろ)に嫡男がなく絶家となりました。最後は、重利の三男忠門(ただかど)は大久保姓を称していましたが、二代後の養子広氐(ひろもと)が久世姓に復して旗本忠右衛門家(100石200俵)となりました。


以上が『寛政重修諸家譜』に記載されている久世家六家となります。各六家には嫡流と庶流があり、そのどこかに関連がある、あるいは興味があれば、それはもう久世三四郎広宣一門会に参加する資格を有しています。ご自分の姓が久世ではあるが、各六家のどの嫡流あるいは庶流に関係しているのか分からないという方も、すでにご興味を持っているので参加資格を有しています。

是非、一門会に参加して、もやもやしている疑問や質問を、みなさんで一緒に解明してみませんか。

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