久世三四郎広宣 生い立ち②
- 平九郎家十三代目二男
- 8月31日
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久世広宣の生い立ちについては、現在の静岡県掛川市西大渕にある久世山浄泉寺の案内板を前回のブログでも紹介しました。浄泉寺の案内板、Wikipedia、その他のブログなどでは、概ね父の平四郎長宜が三河一向一揆で討死後、母親と共に流浪の末、横須賀城近くの大渕に移り住んだと記載されています。その根拠とされる資料としては、前回で触れました「郷里雑記」の下記の内容であると思われます。
『寺僧ノ口傳二云。「久世甚五郎又平四郎とも云 長宜は、永禄三年に一向宗の門徒とて、大権現に背奉りて同六年には遂に戦ひ死給ひにけり。其子廣宜は二歳にて堅固の孤なりけるを、此寺の開山をば寂照院日豊とて大新井に草の庵して住みけるがもとに、御母と尋來給ひてやうやう長りて野中になん住給びけるかくて大権現にも御かん許され奉りて、十六にて大須賀殿の麾下に属て、御手先組に備りて十八にて初めて高天神城の合戦には出立給ひにけり。かくて後御父の御ぼだいにとて此寺をば造り給へると申傳侍ると云へり」。』
しかし、この記述に対しては違和感を覚えていました。その主な違和感とは、下記のとおりです。これらについては、次の機会に考察したいと思います。
1) 広宣の母親が二歳の幼子を連れて、なぜ三河から遠江国横須賀の地まで来たのか。
2) 大須賀康高の麾下に属す十六歳まで、母親と隠棲していたのか。
3) 高天神城の合戦は、十八歳の時が初めてなのか。
4) 浄泉寺を開山した寂照院日豊とは、どのような僧なのか。


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