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久世三四郎広宣 生い立ち③

武家事記 - 国立公文書館 デジタルアーカイブ
武家事記 - 国立公文書館 デジタルアーカイブ

 先の生い立ち②のブログで指摘した、これまでの生い立ちに関する違和感は下記のとおりです。それでは、なぜ違和感を覚えているのかについて説明します。


1)  広宣の母親が二歳の幼子を連れて、三河から遠江国城東郡横須賀の地まで来たのか。

 広宣の母親が、高天神城の小笠原氏を頼って横須賀西大渕の地に辿り着いたということです。その根拠としては、父平四郎長宜の最初の妻が小笠原長隆の娘とのことからではないかと推定します。この小笠原長隆とは、松平家忠の家臣で、長隆の妻は小笠原左衛門左重広(広重)の養女です。両親が小笠原家である長宜の前妻が広宣の母親であれば、あるいは高天神城の城主である小笠原信興(長忠)またはその一族を頼りに遠江へ流浪することは考えられます。しかし、広宣の母親は長宜の後妻で内藤十右衛門正廣の女と「寛永諸家系圖傳」に記載がありますので、遠江の小笠原家を頼るとは考え難いと言わざるを得ません。


2)  大須賀康高の麾下に属す十六歳まで、母親と隠棲していたのか。

 「参河志」下巻 額田郡において『針崎村古春崎村と伝 酒井左衛門尉屋敷跡壹丁五反程あり 久世三四郎針崎一揆之節御伴仕討死す嫡子幼少にて宮地村に蟄居す妙國寺家康公申上候て被召出其後大須賀家へ御附人に成る』との記載があります。また、「武家事記」において『大須賀五郎左衛門尉康高カ小扈従ヨリツカイ立タル勇士也』との記載があり、広宣が横須賀西大渕の地で母親と隠棲していたとは考え難いです。


3)  高天神城の合戦は、十八歳の時が初めてなのか。

 「高天神小笠原家譜」の大須賀五郎左衛門殿衆 高天神ノ城ニ籠において、久世三四郎の名を見ることが出来ます。これは、天正2年(1574)の第一次高天神城の戦いにおいて籠城した者を記載しています。広宣は、永禄4年(1561年)の生まれで当時は十三歳なので、大須賀康高の小姓として従っていたと考えられます。したがって、戦闘行為に参加したのは十八歳の高天神城の合戦が初めてではなく、十三歳の第一次高天神城の戦いが初陣であったと考えられます。また、この第一次高天神城の戦いの開城後に、武田側として高天神城に残った者を「東退組(とうたいぐみ)」、城から出て徳川方に合流した者を「西退組(せいたいぐみ)」と呼び、その後、大須賀康高は西退組はじめ百十名を集結して大須賀党と呼ばれました。別名は「横須賀衆」です。


4)  浄泉寺を開山した寂照院日豊とは、どのような僧なのか。

 高天神城の近くに、ナギとマキの「緑の山門」で有名な「花の寺」白梅山本勝寺があります。この本勝寺は、天正2年(1574年)の第一次高天神城落城と共に焼失し、その後、現在の場所であるに掛川市川久保に建立されました。「緑の山門」は、三百余年前に同山八代目住職寂照院日豊上人が植えたと伝えられています。浄泉寺を開山した寂照院日豊と、この本勝寺八代目住職寂照院日豊上人は同一人物と推定しますが、これは浄泉寺を権威付けるために日蓮宗の僧として、既に著名だった寂照院日豊上人と結び付けただけではないかと推定します。


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