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久世平四郎長宜供養塔

更新日:2024年8月4日

 長宣は、父・広長の二男として生まれました。長宣は、永禄3年(1560年)5月19日の早朝、織田信長の家臣佐久間盛重が守る丸根砦を、遊兵(奇襲攻撃軍)として大久保忠世等50数名と共に奇襲しました。佐久間盛重は討取られ、その首は松平元康(家康公)から今川義元へ送られました。

 その次に長宣の名前を目にするのは、丸根砦の合戦から3年後の永禄6年9月から始まった三河一向一揆においてです。長宣は、一向宗(真宗)門徒側に与し、永禄6年11月21日に三河國針崎において討死しました。


 浄泉寺は、広宣が父・長宣の菩提を弔うために1588年に創建したと伝えられています。この年は、主君家康公が関白秀吉に臣従するために上洛した1586年と、1590年の小田原征伐の間の比較的落ち着いていた時期だったのではないかと推測します。当時は、大須賀康高与力として横須賀城下に居住していたために、この地を選んだのではないか、と想像しました。

 供養塔の写真、左から長宣室、長宣、広宣、広宣室と続いています。長宣室は後室の内藤正広の娘となります。案内板では、寛永六年(一六六九)没とありますが、1629年の誤りでしょう。仮に、広宣を17歳で産んだとすると85歳で亡くなったことになり、当時としては長命だったのではないでしょうか。

 因みに、供養塔の右側から6基目が、関宿藩主広之の養子の後に分家した初代平九郎広次の供養塔(小さな供養塔の左側)です。

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