三河一向一揆(岡崎市勝鬘寺)
- 平九郎家十三代目二男
- 2024年8月4日
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更新日:8月31日

岡崎市針崎町の勝鬘寺は、本證寺、上宮寺と並び三河三ヶ寺と呼ばれ、永禄6(1563)年の9月から翌年3月に勃発した三河一向一揆の拠点のひとつになった寺です。この寺に家康公の家臣7,80騎が立て籠もりました。三河物語には、立て籠った家臣として、蜂屋半之丞貞次、渡辺半蔵守綱、久世平四郎長宣、坂部造酒之丞正家、筧助太夫正重、等の名前があります。
では、長宣は、一体なぜ一向宗(真宗)に与したのか。確かに、長宣が居住していた場所を井内村(現在の井内八幡宮)と仮定すると、勝鬘寺は東南東へ約700mほどの距離にあります。しかし、長宣が主君を離反する程の一向宗(真宗)の門徒であったとは考え難いのです。なぜならば、父の平太夫広長は尾尻村(岡崎市竜泉寺町)にある法華宗陣門流海雲山長福寺に葬られています。この長福寺は、大久保家の初代宇津忠茂が葬られ後に大久保家の菩提寺となっています。広長の妻は、広長の死後に大久保忠俊の妻となっており、忠俊との間に忠直を儲けています。長宜は、父の広長が亡くなった天文15(1546)年の当時は6歳であり、義弟の忠直が生まれた天文21(1552)年は12歳なので、大久保忠俊に養育されたと考えられます。ということは、忠俊の義理の息子となった長宣もまた、法華宗を信仰していたと考えるのが自然ではないでしょうか。
他方、長宣は妻に小笠原和泉守長隆の娘と、後妻に内藤十右衛門正廣の娘を娶っています。内藤氏の本貫地は碧海都上野村であり、上野下城の城主内藤右京進義清の息子である内藤弥次右衛門清長は一揆側に与しています。弥次右衛門清長と十右衛門正廣の直接的な関係は分かりません。しかし、内藤一族であることから十右衛門正廣も一向宗(真宗)を信仰していたのではないでしょうか。長宣は舅である十右衛門正廣に頼まれて一揆側に与する、という苦渋の選択をしたとは考えられないでしょうか。勝鬘寺に相対するのは、義理の父である大久保新八郎忠俊(常源)を筆頭に大久保一党が籠る上和田砦です。長宣は、主君である家康公と育ての親である忠俊を同時に離反するという、計り知れない苦悩に苛まれていたのではないでしょうか。その苦悩の末に、敢えて討死という選択肢を選んだのではないかと考えてしまいます。長宜が亡くなったのは永禄6(1563)年11月21日で、一揆が始まってからわずか2ヶ月後のことです。
長宜と共に勝鬘寺に立て籠もった者たちは、一揆和睦・収束後に帰参し数々の武功を挙げました。蜂屋貞次は、吉田城攻めにおいて被弾により負傷してその後死亡。徳川十六神将の1人として数えられています。渡辺守綱は、家康公の命により九男義直の付家老に転じ最後は義直の領国名古屋で死去。守綱もまた徳川十六神将の1人として数えられています。坂部正家は、元亀元(1570)年6月姉川の戦いで戦死。筧正重は、大須賀康高麾下に属し、天正4(1576)年に康高が横須賀城入城の際は副将となり、以後も康高の武者奉行を務めた。たられば話で言えば、長宜が生きていたとすれば、その後の活躍によって、徳川十六神将あるいは徳川二十四神将のひとりとして名を残していたはずです。ただ、その場合には、徳川家旗本三代目となる息子の広宣は、凡庸な武将で終わっていたかもしれません。
因みに、寛永諸家系図伝によれば、長宜の弟の甚九郎は三河において19歳で討死し、異父弟の忠直は大久保姓を称しました。大久保甚左衛門忠直は、初陣の姉川の戦いで武功を称され「荒之助」を名乗り、その後は数々の戦に従軍しました。元和5年(1619年)田中城番となり、石高は2000石に達しました。その息子の荒之助忠当は、元和8年父の城代の役料500石は還付して残1500石を相続しました。荒之助忠当の室は、久世三四郎広宣の娘で、墓所は荒之助忠当と同じく東京都杉並区にある法華宗陣門流の法真山理性寺。




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